当社の歴史
Episode01事業のはじまり
昭和40年頃、先代が事業を開始しました。
実は現在の事業を始める前、長野県の坂城という町にリッカーミシンの下請けをやっておりましたが4年ほどで事業に失敗をし富士市に帰ってきました。資金繰りの為に家屋敷、2か所の不動産など全財産を処分して無一文の状態で新規事業を開始しました。
最初のうちは、ウエスなどのぼろ布を買い選別し問屋に持っていき稼いでいましたが、化学繊維が出回ってくると下火になったため、ぼろ布から次第にモーター屑やトランス屑といった金属くずを買って解体、銅を回収、問屋に販売するといった今の事業の基礎のようなことを行うようになりました。
富士。富士宮、沼津と古物屋、電気工事屋をまわり電線くずを買い、太い線は皮むき機で皮をむき銅を取り出し、細い線は富士川の河原で燃やし銅のみを回収し資金を得ていました。
実は現在の事業を始める前、長野県の坂城という町にリッカーミシンの下請けをやっておりましたが4年ほどで事業に失敗をし富士市に帰ってきました。資金繰りの為に家屋敷、2か所の不動産など全財産を処分して無一文の状態で新規事業を開始しました。
最初のうちは、ウエスなどのぼろ布を買い選別し問屋に持っていき稼いでいましたが、化学繊維が出回ってくると下火になったため、ぼろ布から次第にモーター屑やトランス屑といった金属くずを買って解体、銅を回収、問屋に販売するといった今の事業の基礎のようなことを行うようになりました。
富士。富士宮、沼津と古物屋、電気工事屋をまわり電線くずを買い、太い線は皮むき機で皮をむき銅を取り出し、細い線は富士川の河原で燃やし銅のみを回収し資金を得ていました。
昭和55年ごろから自社で、非鉄金属問屋業をはじめ、アルミ屑、アルミ二次合金メーカー、銅くず、真中、砲金地金メーカーと取引できるようになりました。
昭和60年ごろには、取扱量も増えたこともあり場所が手狭となったため工場の移転を考えるようになりました。平成元年に富士市伝法から富士宮市杉田へと移転し社名も有限会社吉岡商店から現在の「有限会社ヨシオカ」へと変え、業務内容も非鉄金属問屋から取り扱いの中で一番得意品目に集中するために電線リサイクルに変更しました。
また代表取締役も父から吉岡真一へ受け継ぎ、現在に至ります。
昭和60年ごろには、取扱量も増えたこともあり場所が手狭となったため工場の移転を考えるようになりました。平成元年に富士市伝法から富士宮市杉田へと移転し社名も有限会社吉岡商店から現在の「有限会社ヨシオカ」へと変え、業務内容も非鉄金属問屋から取り扱いの中で一番得意品目に集中するために電線リサイクルに変更しました。
また代表取締役も父から吉岡真一へ受け継ぎ、現在に至ります。
Episode02運命を変えた易者との出会い
昭和60年よりつづいた円高および銅相場の下落が終わりいくばか利益が出るようになった頃、偶然にもよくあたる易者がいると聞きみてもらう事にしました。
すると、「今年が一生で3回良い時があり、今1回目が来ているのでやりたいことをやりなさい。移転を考えるなら北北西に行け」と言われました。易者のいう事を聞いてその気になり土地を探して3か月。会計士から杉田に売りに出ている土地があるという連絡があり見に行きました。この土地こそ現在の工場の所在地であり、第一印象は「空気が良く、落ち着いた気がする」と好印象でした。
早速図面をもって易者にみてもらったところ、「久しぶりにいい土地を見た。土地が東南向きで長方形で隣の駐車場と合わせてみると、東南に半島の様に張り出しがあり縁起がいい。東南の張り出しに倉を建てなさい。“辰巳の倉”となり、いつも品物でいっぱいになり無くなってもすぐ次が入ってくるから」といわれ実行しました。
また、この時に現在の社名でもある社名変更も見てもらいカタカナでヨシオカという表記になりました。
すると、「今年が一生で3回良い時があり、今1回目が来ているのでやりたいことをやりなさい。移転を考えるなら北北西に行け」と言われました。易者のいう事を聞いてその気になり土地を探して3か月。会計士から杉田に売りに出ている土地があるという連絡があり見に行きました。この土地こそ現在の工場の所在地であり、第一印象は「空気が良く、落ち着いた気がする」と好印象でした。
早速図面をもって易者にみてもらったところ、「久しぶりにいい土地を見た。土地が東南向きで長方形で隣の駐車場と合わせてみると、東南に半島の様に張り出しがあり縁起がいい。東南の張り出しに倉を建てなさい。“辰巳の倉”となり、いつも品物でいっぱいになり無くなってもすぐ次が入ってくるから」といわれ実行しました。
また、この時に現在の社名でもある社名変更も見てもらいカタカナでヨシオカという表記になりました。
Episode03日蓮宗 妙覚寺のお地蔵さん
話は変わりますが、昭和63年ごろ今は亡き父親 吉岡義信が伝法の日蓮宗妙覚寺の総代をやっており、境内のすみでお地蔵さんが無造作に置かれていたのを発見しました。
「これではお地蔵さんが可哀相だ」と思い境内の入口に奉り家を寄付しました。周りの役員たちは一人で建ててしまい資金は大丈夫かと心配していましたが、30万円くらいだろうと大工に頼みいざ請求書をみたらびっくり!130万円ほどの請求額だったのです。
すかさず資金繰りが自分の所に回ってきて、恥ずかしい話商工会議所に行き資金を借りることになりました。しかし、後々になって前々から考えていた移居にぴったりな物件を見つけることが出来たり、工場増築、機械室新築、設備の新築、賃貸物件を7件取得できるなどご利益が回ってきました。
昔話にでてくる「かさ地蔵」もとい吉岡家の場合は「家地蔵」。
現在は亡き父の跡を引き継ぎ、自分が日蓮宗妙覚寺の総代、護寺会長を兼任しています。
「これではお地蔵さんが可哀相だ」と思い境内の入口に奉り家を寄付しました。周りの役員たちは一人で建ててしまい資金は大丈夫かと心配していましたが、30万円くらいだろうと大工に頼みいざ請求書をみたらびっくり!130万円ほどの請求額だったのです。
すかさず資金繰りが自分の所に回ってきて、恥ずかしい話商工会議所に行き資金を借りることになりました。しかし、後々になって前々から考えていた移居にぴったりな物件を見つけることが出来たり、工場増築、機械室新築、設備の新築、賃貸物件を7件取得できるなどご利益が回ってきました。
昔話にでてくる「かさ地蔵」もとい吉岡家の場合は「家地蔵」。
現在は亡き父の跡を引き継ぎ、自分が日蓮宗妙覚寺の総代、護寺会長を兼任しています。
Episode043年から5年の壁
平成元年工場の新築から移転をはじめ、平成2年にようやくナゲットプラントが稼働しました。
最初の3か月ほどは思うように機械が動かず試行錯誤の末になんとか動くようになり朝7時に家を出て夜11時くらいに帰宅するという生活を3年ほど続けていました。
平成のバブルにうまく乗り、銅パイプ工場とのロング契約や仕入れ、資金繰りすべてが順調でしたが平成3年ごろに銅相場の下落が始まりました。銅パイプ工場との契約は毎月納入だったものの、銅の値段はその月の相場だったため思うように売り上げが伸びず会社の経営は厳しいものでした。
しかし易者の言う通り、“辰巳の倉”のおかげで仕事が途切れそうになると次の仕事が入ってきて工場内はいつも仕事がいっぱいでした。経営のための借金など苦しいこともありましたが思ったよりも早く借金を返済することが出来たのです。
平成20年に不動産賃貸業も開始し始め色々悩みながらも毎年ひとつずつ物件を購入するようになりました。
最初の3か月ほどは思うように機械が動かず試行錯誤の末になんとか動くようになり朝7時に家を出て夜11時くらいに帰宅するという生活を3年ほど続けていました。
平成のバブルにうまく乗り、銅パイプ工場とのロング契約や仕入れ、資金繰りすべてが順調でしたが平成3年ごろに銅相場の下落が始まりました。銅パイプ工場との契約は毎月納入だったものの、銅の値段はその月の相場だったため思うように売り上げが伸びず会社の経営は厳しいものでした。
しかし易者の言う通り、“辰巳の倉”のおかげで仕事が途切れそうになると次の仕事が入ってきて工場内はいつも仕事がいっぱいでした。経営のための借金など苦しいこともありましたが思ったよりも早く借金を返済することが出来たのです。
平成20年に不動産賃貸業も開始し始め色々悩みながらも毎年ひとつずつ物件を購入するようになりました。
Episode05壁をのり越えて
平成3年からの不景気による壁を乗り越えてからは、工場設備機器はもちろん電話やコピー機にいたるまでリースは一切組まず、現金払いをするよう心掛けています。
また会社を経営し、困難を乗り越えたからこそ会社資金繰りの仕方や自分自身の体のメンテナンス等しっかり管理をしていこうと思います。
先代から引き継いできた有限会社ヨシオカを今後も継続できるよう努力を続けてまいりたいと思います。
また会社を経営し、困難を乗り越えたからこそ会社資金繰りの仕方や自分自身の体のメンテナンス等しっかり管理をしていこうと思います。
先代から引き継いできた有限会社ヨシオカを今後も継続できるよう努力を続けてまいりたいと思います。